いよいよ明日 記念すべき半世紀目の誕生日を迎えます。
そんな節目の日を前にした今日、40年前に他界した父のことを思い出したので
昔のサイトにアップしていた父との思い出話を ここに転載してみることにします。

太平洋を望み四国山脈を背にした雄大な自然に恵まれた土佐の高知。
50年前、僕はそこで生まれました。
土佐を代表する偉人である坂本龍馬の生誕地は、入学した小学校の目と鼻の先にあります。
そこから南に少し行ったところに高知市の真ん中を流れる「鏡川」があり、
同校の校歌にも登場する龍馬は、幼少の頃 その「鏡川」で遊泳していたといいます。
実は、僕が小学生くらいの時にも(もう少し上流でしたが)「鏡川」には遊泳できる場所があり、
夏休みには 友達数人と毎日泳いでいました。
父は、「四万十川」に並ぶ清流「仁淀川」の源流域である
高知県高岡郡仁淀村(現=仁淀川町)の出身です。
その「仁淀川」の下流に吾川郡伊野町(現=いの町)があります。
伊野町は高知市の隣に位置している和紙の町。
伊野町内では、今や世界各国から注文があるほどの良質の土佐和紙が「仁淀川」の清流の恵みと、
伝統的な工芸法によって作られています。
ちなみに僕は伊野町にある高知県立伊野商業高校を卒業しています。
小学三年生から四年生の間、高知市内のアパートで父と二人で暮らしていました。
父は川が好きでした。
近くの「鏡川」にも、伊野町の「仁淀川」にも、よく連れて行ってくれました。
川が好きだった父ですが、ギャンブルも大好きでした。
とある休日「こどものくに(当時、高知にあった遊園地)へ行こう!」と誘われました。
実は〈こどものくに〉の隣の競輪場〈おとなのくに〉が目当てだった父は
結局、競輪場で所持金を全部使い果たし、晩飯を買うお金も無くなってしまいました。
もはや「こどものくに」どころではありません。
その帰りに 何を思ったのか、競輪場の前の「鏡川」の河原に下りて、
石と石の間を覗き込んだかと思えば、沢ガニを見つけて 手づかみで捕獲し始めました。
嫌がる僕の野球帽を奪い取り、凄まじいばかりにサバイバルの如く、
大量の沢ガニを生け捕って野球帽の中に入れていく父…。
その晩飯は、沢ガニの大盛り姿焼でした。
沢ガニがうじゃうじゃと皿に盛り付けられた光景は異常なほど奇怪で
僕は それ以来 カニが嫌いになりました。
サバイバルのような生活は その後まだまだ続きました。
「今度は、川ウナギを捕獲しよう!」
…そんな父のことです。予想通り大量のウナギが、しばらく食卓に続きました。
いくら栄養があるといっても毎日ウナギでは…。
でも、ウナギが嫌いになることは ありませんでした。
小学四年 10歳の12月、クリスマスを前に 父は突然 この世を去りました。
それからも 何かあるごとに「鏡川」に行っては水面を見つめる日々。
落ち込んだ心を癒し続けてくれた川。
しかし その川は 時として その周辺に住む人々の日常生活を傷つけました。
台風銀座高知には、毎年シーズンになると大型の台風が襲来します。
雨風はもとより、「鏡川」の氾濫・洪水という恐ろしい状況を幾度となく体験しました。
「こどものくに」も台風災害のためになくなってしまいました。
それから近年に至るまで「鏡川」は、堤防工事などの開発が急ピッチで進み、
遊泳場や沢ガニとかウナギとか獲った場所も、いつの間にか消えてしまいました。
父と一緒に過ごした川の面影は まったくありません。
「鏡川」は浦戸湾に流れ出て、やがて広大な太平洋にそそがれるために、
昔と同じ方向へ 今でもゆっくりと流れています。

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そんな節目の日を前にした今日、40年前に他界した父のことを思い出したので
昔のサイトにアップしていた父との思い出話を ここに転載してみることにします。

太平洋を望み四国山脈を背にした雄大な自然に恵まれた土佐の高知。
50年前、僕はそこで生まれました。
土佐を代表する偉人である坂本龍馬の生誕地は、入学した小学校の目と鼻の先にあります。
そこから南に少し行ったところに高知市の真ん中を流れる「鏡川」があり、
同校の校歌にも登場する龍馬は、幼少の頃 その「鏡川」で遊泳していたといいます。
実は、僕が小学生くらいの時にも(もう少し上流でしたが)「鏡川」には遊泳できる場所があり、
夏休みには 友達数人と毎日泳いでいました。
父は、「四万十川」に並ぶ清流「仁淀川」の源流域である
高知県高岡郡仁淀村(現=仁淀川町)の出身です。
その「仁淀川」の下流に吾川郡伊野町(現=いの町)があります。
伊野町は高知市の隣に位置している和紙の町。
伊野町内では、今や世界各国から注文があるほどの良質の土佐和紙が「仁淀川」の清流の恵みと、
伝統的な工芸法によって作られています。
ちなみに僕は伊野町にある高知県立伊野商業高校を卒業しています。
小学三年生から四年生の間、高知市内のアパートで父と二人で暮らしていました。
父は川が好きでした。
近くの「鏡川」にも、伊野町の「仁淀川」にも、よく連れて行ってくれました。
川が好きだった父ですが、ギャンブルも大好きでした。
とある休日「こどものくに(当時、高知にあった遊園地)へ行こう!」と誘われました。
実は〈こどものくに〉の隣の競輪場〈おとなのくに〉が目当てだった父は
結局、競輪場で所持金を全部使い果たし、晩飯を買うお金も無くなってしまいました。
もはや「こどものくに」どころではありません。
その帰りに 何を思ったのか、競輪場の前の「鏡川」の河原に下りて、
石と石の間を覗き込んだかと思えば、沢ガニを見つけて 手づかみで捕獲し始めました。
嫌がる僕の野球帽を奪い取り、凄まじいばかりにサバイバルの如く、
大量の沢ガニを生け捕って野球帽の中に入れていく父…。
その晩飯は、沢ガニの大盛り姿焼でした。
沢ガニがうじゃうじゃと皿に盛り付けられた光景は異常なほど奇怪で
僕は それ以来 カニが嫌いになりました。
サバイバルのような生活は その後まだまだ続きました。
「今度は、川ウナギを捕獲しよう!」
…そんな父のことです。予想通り大量のウナギが、しばらく食卓に続きました。
いくら栄養があるといっても毎日ウナギでは…。
でも、ウナギが嫌いになることは ありませんでした。
小学四年 10歳の12月、クリスマスを前に 父は突然 この世を去りました。
それからも 何かあるごとに「鏡川」に行っては水面を見つめる日々。
落ち込んだ心を癒し続けてくれた川。
しかし その川は 時として その周辺に住む人々の日常生活を傷つけました。
台風銀座高知には、毎年シーズンになると大型の台風が襲来します。
雨風はもとより、「鏡川」の氾濫・洪水という恐ろしい状況を幾度となく体験しました。
「こどものくに」も台風災害のためになくなってしまいました。
それから近年に至るまで「鏡川」は、堤防工事などの開発が急ピッチで進み、
遊泳場や沢ガニとかウナギとか獲った場所も、いつの間にか消えてしまいました。
父と一緒に過ごした川の面影は まったくありません。
「鏡川」は浦戸湾に流れ出て、やがて広大な太平洋にそそがれるために、
昔と同じ方向へ 今でもゆっくりと流れています。

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